||  人喰い鬼と愛し仔  ||




二.

 音もなく、傘から雪が滑り落ちた。やわらかな新雪のうえに新たに降り積もる。その傍ら、一面無色の世界の
中で、ひとつだけ鮮やかな赤があった。白よりも鮮やかに目を射るその緋に、男はそれをしばらく見つめ、ゆる
りと目を細めた。
わずかに身じろいでいるようにも見えるそれは、まだほんの嬰児だった。くるまれた衣よりも一層赤くし、やがて
周囲の雪よりもなお青白くなるであろう頬が男の目に映る。
棄て子だろうか。
ついそんなどうでもいいことを考えてしまったのは、今日殺したものの中に幼い子どもがいたからか。泣き叫び
泣き叫び、命を散らした。
気がつけば男は雪の中にしゃがみ込んでいた。手を伸ばしてしまった自分の行動に驚き、同時にひどく動揺す
る。けれどもう、触れてしまった。子供の頬は真っ赤だったけれどもすでに死の冷たさをはらんで、何の感情も
乗せていない。瞳の澄んだ黒曜の輝きだけが、まだ子どもが彼岸に引き摺られていないことを示していた。
「泣かないのか、お前は」
 返事などないと理解していながら、男は訊ねていた。
「泣かぬ、のか。お前は……?」
 こんなにも死と近しくしていながら声もあげず身動ぎすらせず。
 不意に男は嗤った。
「ああ、そうか。そうなのか、お前は……」
 今年の秋は稀に豊作の年で。普通であれば子を棄てる必要などありはせぬ。そうであるのにも関わらず、こ
こように生まれたばかりの赤子がほんの少しの情けも与えられず放り出されるその理由は。
「お前、足を失っておるのか」
 赤子は足をもってはいなかった。異形だ。殺されたとておかしくはない。男は自らの性状が鬼と呼び称されて
いることについてしばし思いをはせ、またくつりと嗤った。
「お前、生まれる刹那に死んだのか。ならばお前もバケモノよな」
 雪がやんだ。朝に残った最後の雪の塊が、滑ってかすかな音をたてた。雲の切れ間から月が覗き、竹やぶの
風景を映し出す。踊っていく光が眩しすぎ、男は顔を伏せた。
「憐れ、な」
 漏れた言葉の意味もわからぬままに、男は呟く。憐れむということは他人に対する最大の侮辱ということを男
はよく知っていたが、それでもそう思わずには到底おれなかった。
 ここで、人喰い鬼と称される男と出逢ったことに。
 見なかった振りをするか、ひと思いに殺してやるべきか、果たしてそのどちらがよいだろうかと男は逡巡した。
 そこではた、と男は気づく。
 ――そうしてやる義理など己れにはない。
 だか、これはすでに生きることを諦めて、その身を冷たい地面に横たえているのだ。僅かばかりでもその時を
短くしてやるのが偶然にでも行きあったものの情けではないのか。幸いに、己れにはそのための術がある。
 腰に差した日本の打刀は、城下の侍どもが己の権威におごって持つものとは意を異にする。正真正銘の人斬
り刀だ。
 最早今更ひとり、ふたり、この刀を用いることにどうして恐れなど感じようか。
 感傷などというひとの心を呼び起こした子どもが男には煩わしく、断ち切ってしまいたかったのが、本音である。
「死ぬるか……? そこにおるは、寒いだろう……?」
 刀の鍔が音を立てた。
 抜き出した刀は月明かりを受けて冴え冴えと輝き、死を告げる。
 喉元に突きつけて切っ先に力を込める。あとわずかでもずらせば鮮血が迸る距離。
 殺すのは怖くなどありはせぬ。だが、この子どもは心底恐ろしかった・・・・・・
 真っ直ぐに死だけを目に映す、その子どもは。恐れもせず、ただただ諦めて。
 諦めて――
「諦め、て……?」
 本当にそうだろうか、と男は子どもに膝を寄せた。
 子どもの向こう側に右手をついて、覆いかぶさるようにしてちいさな命を見下ろす。次の瞬間には、男の右手
は空を握り込んでいた。
「っ!?」
 体勢の崩れた身体が右肩から下へと落ちていこうとする。先ほどまで地面があると思っていた場所は、今は
空白のみが存在していた。雪の塊が表れでた崖を滑り、眼下で微かな音を立てる。差していた緋の傘が鮮や
かな色だけを遺して落ちていく。男が崖だ、と認識していた場所よりも随分と近くに、そこは存在していた。
 半ば唖然として地に伏したまま、男はそれを視界に余すところなくおさめた。
「ふぇ……」
 腕の中で、何かが声をあげた。むずかるような声だった。
「ふぇぇ……んっ」
「――あ……、」
 先ほどよりも遥かに呆然として、男は腕の中を見た。
 そこには殺してやろうかと囁いた、乳飲み子がしっかりと抱きとめられていた。無意識か何なのか、男には分
かりはせぬ。ただ助けてしまった、その事実だけがまるで咎のように男の心臓を射た。
「あ、あ……」
 声にならない言葉を吐き出しながら、男は緩慢すぎる動作で身を起こした。震える両手で、抱えなおした。
「泣くのか……、お前は。本当は。泣きたかった、のか……?」
 先ほどの静けさが嘘のように火がついたように泣いている子どもを、我慢がならずに激しいほどに掻き抱いた。
夢中だった。寄せた頬から感じる命の温度が、鬼には持ちえるはずもない場所を締め付けて痛くて、男は嗚咽
を噛み殺す。
「何だ、そうか……。生きたかったのか……。だから、お前は……っ」
 本能的に動くと死ぬと知っていたのか。泣くことすらせずにいたその理由。
諦めていたわけでもなく、受け入れていた瞳。
それなのに生への渇望と安堵で懸命に泣く姿に。
――こんなにもひたむきな命をほかに知らない――
 親からも見向きもされなかった魂が、はっきりと己の孤独に重なった。仮令バケモノであろうと人喰いの鬼で
あろうと。
同類ではない。この子どもはきっと日のしたを歩く。どんなに蔑まれても、きっと。荒んだ男とは違い、どこまで
もまっすぐな眼差しで歩くのだろう。

もしかしたら、己れも。そんな浅ましい願いが、すべてを諦めた男に生まれた日だった。





   
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