「……付け入るすきを与えたのは、六淵のほうだ」
十籠はぽつんと言葉を落とした。
十籠には本当に、六淵だけだったのに。いくら疑われても、そうだったのに。六淵はそうではなかった、それがこんなに、胸に痛い。
「俺の話に聞く耳を持たなかったのはそちらだろう。殺さなければ、滅ぼされていたのはこちらだった」
「……綾識は体面を重んじるんだ。次期総領のわたしを軽んじられて、黙っていられるほど奴らは甘くない」
綾識にとっては、一度封じることのできた相手。下に見ていた六淵に受けた屈辱を返す方が重要だった。
綾識にこの些細な逢瀬を悟られる前に喰らうのを止めてくれたなら、六淵があといくばくか、狭い世界で我慢してくれていたなら。
もっと違った未来があったはずのに。六淵がそれくらい、十籠を信頼してくれていたなら。
「かわいがったろう! あれも、本心だったんだ!」「うん。……でも、一番ではないだろう?」
十籠の一番はいつだって六淵だった。
こともなげな問いかけに、その重さに、六淵は愕然とする。
どうしてこの子どもに、愛情だけを注げなかったのだろう。そうすれば、その愛情を享けて、十籠はそっくりそのまま同じものを六淵に返しただろうに。
(十籠をこうしたのは……、俺か)
「わたしは貴様にとってその程度の、取るに足らない餌でしかなかったということだろう」
――感じた情などまぼろしだ。
「……だったらわたしも、手加減はできないんだよ」
ただでさえ六淵に損なわれた身体だ。ためらう余裕などなかった。ためらえば、反対に自分が殺されていたかもしれない。六淵は殺すつもりまではなかったかもしれないけれど、そんなこと、六淵自身が言ったとて証拠にはならない。
「……空腹だった。自由になりたかった」
うん、と十籠は頷いた。
「止めることはできなかった。お前が目の前にいて、うまそうな匂いをまき散らして、これでも我慢したんだ。嫌なら俺に触れねばよかった。お前はいつも、自分から手を伸ばしたじゃないか。お前は生きている。……ひと思いに食わなかっただけ、」
そこで六淵は言い淀み、言葉を切った。
「ましと思え、か?」
台詞を引き継ぐ十籠に、六淵は顎を引いて目を背けた。大柄な男には、何とも似合わない仕草だった。だがさすがにそこまで開き直れはしなかったのだろう。
「でもわたしはそう思うよ。喰えばよかったんだ。わたしが池に落ちたそのときに。お前を知ってしまうその前に。お前が目の前に顕れたとき、わたしは、にえになってもいいと思っていたのに」
助けられてしまった、それがそもそもの間違いだった。あのとき瞬間にもう、絶望的な運命が片鱗を見せ始めていたのだ。あそこで終わってしまっていれば、ただ六淵が力をつけ、綾識の結界を破り、根絶やしにして、それで終わりのはずだった。
十籠を救いさえしなければ。
「……お前のせいだよ、ちくしょうめ……」
六淵がどんな男か、知ってしまったから。愛情を、覚えさせられてしまったから。六淵からの恨みすべて背負ってでも、生きたいと思ってしまった。六淵と、生きたいと思ってしまった。
綾識の望むように、生きてでも。
「わたしは綾識になってしまった。だから――、もう、構わないんだ」
綾識は六淵を滅ぼすと息巻いていた。まだ何の権限も一族に持たない十籠は、綾識に災いをもたらしただけの存在だった。その軽率を、皆は責めた。十籠は十籠の名誉を、自分で回復しなければならなかった。生きていくなら(……死にたかった)。
「貴様が所詮、というなら六淵。わたしはもうそれで構わないんだ」
六淵を式に貶めてしまった。
これから先、十籠はもう、六淵に対してなにも告げる言葉を持たない。資格は永遠に失われた。六淵と十籠は対等ではなくなった。六淵は下僕だ。主人は十籠だ。
いまさらどんな優しい言葉をかけられるだろう。
最も六淵が忌んでいたことをしでかして、どの面下げて赦しを請える。
「……わたしは綾識だ。やっとわかった。どんなにあの家から逃げ出したくても、それ以外のものには、なれなかった。お前をしばり付けることしかできない存在だ。
――……お前の恨みを背負うよ、六淵。わたしを綾識の代表として、これからは憎むがいい」
……十籠は、六淵の幸福を願えなかった。
恨まれることは先刻承知だった。
それでも綾識なんぞに六淵の命を渡したくなかった。滅ぼさせたくなかった。――独りに、なりたくはなかった。
その浅慮が、六淵を式に降させた。
何より怖かったのは、六淵がこの世から消えることだ。恨まれてもいい、二度と撫でてもらえなくてもいい、十籠、と、やわらかな声で呼ばれずとも、笑顔を見れずとも。
(生きてさえいてくれれば、いい、――いい……)
与えられていたのが、まやかしでもよかったのだ。十籠にとっては、確かに本物に感じられた時間だったのだから。
でも本当にそれが六淵を案じる気持ちだけなら、十籠は六淵への解放を約束できただろう。けれどそうはしない。それは、十籠がとても、心弱い子どもだからだ。
もしも六淵がずっと、十籠を手懐けるために演技をしていたなら。自由になった瞬間に龍は慕う子どもの前から姿を消して、大きな空に泳ぐだろう。
見棄てられる。
十籠は最悪を考える。それを回避するための布石を打つ。
臆病な子どもだ。最低な子どもだ。相手を信じられなかったのは、自分の方だ。
こんな手段でしか六淵を留めおけなかったことに、十籠は睫毛を伏せ、昏い瞳でわらう。