||  人喰い鬼と愛し仔  ||




三.




 雪解けが始まった。
 半ば水と化した雪が皮葺き屋根から滑り落ちていく音を聞く。戸を開けてみれば廂から滝のように水が流れて
いくのを拝むことができるに違いない。
 外は随分と明るいようだった。壁に空いた個々の隙間から洩れ入ってくる光がまぶしく男は目を眇めたが、一
間の室内は幾筋もの光よりもなお濃く陰が満たしている。光が、増すほどに。
 その時何やら胸を掻きたてられる違和感を覚え、男は唸った。
 ――何だ? 何かがあったろうか……?
 男はようやく夜着から身を起こした。放り出していた腕が外気に触れて冷たくなっている。そのうえ常ならば若
干のしびれとだるさを訴えているはずであるのに妙にすっきりとしていた。
 あれは今朝、己れの腕を枕にはせなんだか。
 珍しいこともあるものだと男は首を傾げ、そこでようやっと違和感の正体に気づいた。
 おらぬ、のだ。
 男が仕事で置いて行く時のほか、片時すらも傍を離れることがなかった養い子が。
「おい?」
 はぎ取った夜着を行方も見ずに放り出し、男は立ち上がった。
「おい、どこにおる?」
 名を呼ぶことは、せぬ。それ以前に男は子どもに名を与えていなかった。名を与えれば情が移る。
 今さらだ、そういう気もしないでもなかったが、それも言ってしまえばそれまでの気がして頑なに目を逸らしてい
たのだ。しかし、今回ばかりはそれを後悔した。まがい物の足を造ってみて以来、子どもは狭い庵の中、生傷を
いくつも拵えながら必死に歩く練習をしていた。兄が眠っている間、少しでも外に出てみようと考えるのはさして
驚くことでもない。
 だがこれからも頻繁に出ていくのなら、『おい』では少々不便な気がした。きっと、呼んでも自分だとは思わぬ。
「かな、」
 口内で転がしてみて男はゆるく苦い笑みを頬に乗せた。否、一生呼んでやることなどないだろう。そちらのほう
がよい。
 男は首を振り、気を切り替えてガタがきている戸を押し開けた。おい、で気づいてくれればいいが。
 懐手をして戸に背を預ける。吐くたびに白く息が空に立ち上っていく。苦みの混じった咳をして、朱が散った手の
ひらを懐の内で拭う。
 雨も降っていないのに、響く水音があった。それに混じって雪を踏む微かな音も。透明な歌声が間隙をぬって響
いてくる。
 目を瞑ってそれを聴き、危なっかしくて堪らない不規則な足音にともすれば微笑が浮かびそうになるのを慌てて
戒める。
 どんどんどんどんちいさな足音は背後から近づいて、どんな歌を歌っているのかも分かるようになり、ああ、こう
やって穏やかな日々を過ごすのも悪くはないと思えた。到底、望むべくもないことだが。
 心地よい歌声が、止まる。
「あんちゃ!」
 兄に気づいて子どもの足音が早まった。
「ああ、そう急くなよ」
 呟きつつ振り返るのと同時、子どもの姿が地に沈んだ。
「……まだ、慣れぬのに浮かれゆくから」
 男は呆れ、中に入れておいた草履を手に取る。外ではどれだけ濡れるか、草履としての機能は果たせぬだろ
う。
 軽く引っかけて降りるとやはり履物があっても足には冷たい雪が触れた。まだ土は隠されて、きっとこけたとこ
ろで大事はないだろうが。
 突っ伏したままの子どもはまだ動かない。
 足を冷やしながら子どもに近寄り、仔猫にするように首根っこを掴んで引き上げる。
「莫迦者、何時まで転がっているつもりだ?」
 ぶら下げられた子どもは赤くなった鼻を押さえて泣き声を出す。
「いたい」
「当然だ。――まったく、まだ走るなどといった芸当はできぬであろう?」
 子どもはくちびるを尖らせる。
「すぐに、できるよ。だって、ね」
 下ろしてくれとせがむので、男は地面に立たせてやる。すると子どもは崩れるようにしてしゃがみ込んだ。
 どうにかしたのかと目を見開く男の前で、転がってものを手に取った。子どもが、持っていたものだ。
「ね、ふきのとう」
 何に同意を求められているのか掴み切れずに、男は沈黙を返した。子どもは抱えた春野菜を叩きながら、男を
見る。
「春、だ。あんちゃにめいわくかけないよ」
 男は瞠目し、着物が濡れることを厭う気にもなれずに膝を折る。
 子どもはひどく敏感で、大人が考えているよりもよほど賢しい。それは、哀しいほどに。
 まだ、そんなことを思っていたのか。
 気にするなと言ったところで、子どもはきかぬのだろう。
 春になれば庵を離れ、さまざまな場所を廻っていく。這うこと以外、成そうにも成せなかった子どもは、畢竟男に
抱かれていくことになった。そうすると両手は塞がって、人を殺すことを生業にしている男にとってはそれが不安
要素以外の何ものでもない。すぐに獲物を取り出せないこの状態は致命傷であり、神経をひどく過敏にさせた。
気を立たせたその内情を聡い子どもは巧みに手に入れて、このようなことを言い出すのだ。
「賢くなると、煩わしいことが多いな……」
 心底男はそう思う。身体中に付いている雪やらをはたき落してやり、脇に手を差し入れて立ち上がらせてやる。
そうすると男より少し高い位置に子どもの顔がくることになった。その不安を滲ませた顔を見、男は手を伸ばした。
頭を撫でようとしたその手を叩かれると誤解したためであろうか、男どもは目を瞑って身体を強張らせた。それに
驚き、ちらと今まで己れはこの子に手をあげたことがあったろうかと考える。なかった。それは確かだったが、きっ
と年を経るごとにこの子は聡いのだ、恐らくそれ・・にも気づいている。この兄の本質に。隠しき
れぬ死の臭いに。
 ――触れてはならぬ。
 男は自身を皮肉って哂い、袖の中に手を差し戻した。身体はすでに芯から冷えていた。濡れた着物が今更に
なって冷たく感じる。
「帰ろう」
 努めて優しく聞こえるように声をかけ、男は背を向けた。視界の端に子どもの当惑した顔が残像として残る。
「あんちゃ!」
 腕をとったちいさな子どもは、瞳に怯えを湛えて男を見る。
 黙し、布越しに子どものほっそりとした手を握った。
 安心させるべくあやすように手を振って、男は庵に足を向けた。
「お前は、己れの妹だ」
 呟くように男は言った。返答はなく、和らいだ雰囲気だけが安堵を示す。だからその続きをあえて口にしような
どとは思わなかった。
 この冬までは、と。
 そう、もうすぐ、春が来る。心は静かに凪いでいた。
 十一年目に入ろうとしていたこの出逢いは、この冬で終りだ。否、望むべくもなく――終わる。身の内に飼う病
のせいで。
 だからだからどうか。それまではどうか。この子を守らせていてほしい。
 この哀しいほどに愛しいこの養い子を、
 鬼は空を仰ぎ、近づいてこようとする書簡を携えた鳥に、すがるように祈った。



13.05.09 再UP



   




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