心骨に刻す


< 惨 >


 気狂いするような気持ちで、十籠とおかごは胸中で叫んだ。実際に叫べれば、どんなにか楽だったろう。でもそれを受け止めてくれる相手はいないのだ。むなしいことは、しない。
「お前が初めてこの池に来たとき、なあ。俺はちゃんと警戒していたんだぜ。封じを越えて、走ってくるお前の気配をちゃあんと感じてた。しかもあれだけ大きな気だ。綾識あやしき以外に考えられん。何用だ? 今度は何をしでかすつもりだ? 俺が身構えるのも無理ねぇだろ? それなのに、だ」
 やってきたのはずいぶん間抜けな子どもだった。どこを見て走っていたのやら、池の中にまで走りこんできて、あまつさえ、溺れた。気づけば助けてしまっていた。感情豊かなガキで、おまけに阿呆で、怒鳴るついでに名を寄こした。十籠。呼べ、と。拍子抜けして、これはただの子どもなのかと。恨むべき綾識の子どもなどではなく、ただの、少しばかり人より法力に優れた子ども。こちらも思わず名を呼ぶ権利を差し出していた。六淵、と。名は使いようによってはとても強力な呪いになる。それをもしかしたら、子どもは知らぬのかもしれぬと思って。それならば、男の名は知っていたとしても何の役にも立たない。けれど違った、子どもは判っていた。その意味も、効果も。お互いの魂を、握った。
 先に告げたのは、十籠だ。
『ガキ、ではない。十籠だ』
 憤懣やるかたないといった調子で、むっすりと子どもは言った。これが演技なら、とんだ役者だ。まんまと六淵むぶちは騙された。けれど立場は対等だったはずだ。互いに教えた真名だった。しかも、十籠の方から。だからすっかり、子どもに対する警戒を、六淵は解いてしまったのだ。
 孤独な子ども、愚かな子ども、哀れな子ども、愛情を知らぬ、飢えた子ども。子どもはよく泣いていた。もう嫌だ、こんな家など逃げ出したいと、いつも六淵に泣きついた。それでも森を抜けて開けた池へと出るときに、出迎える六淵の姿を認めて、泣き顔がほんの少し、ほころぶのを見るのが、すきだった。
 才がなければ、この池への路は見つからぬ。十籠が綾識の人間だということくらいうすうす察知していたけれど、そんなことはどうでもよくなるくらいだった。
 優しくした。初め、そこに打算がなかったと言えば、嘘になる。六淵は力がほしかった。かつて綾識の術者どもに、総出で封じ込められたこの龍身。池の底。鉄鎖で絡め取られ、ひたすら鎖が朽ちるのを待ち、眠りながら過ごす。神だと何だと、どうでもよかった。六淵は龍だ。人とは違う。人など知らぬ。いくら祀りあげられたとて、豊穣など約束しない。
 永い眠りの果て、十籠が六淵のもとへ落ちてきた。脆くなった呪を、十籠が砕いた。十籠は気づいていないことだけれど。この子どもを利用すれば、最後の封じを破ることとて可能だと知った。六淵の封じられた六つの池と、それを覆う森。その外へは、六淵は出られない。まだ自由にはほど遠い。
 だから、子どもの望むようにしてやった。かわいがって、愛してやった。泣くときは抱きしめて、慰めた。子どもの膨大すぎる力を喰らって、じわりじわりと弱った身を回復させて、この巨大な龍身には相応しくない狭い世界から抜け出す。
 それがいつから手段が目的になり変わり始めたのか。自由になりたい、十籠を愛したい。天秤にかけるには、どちらも重くなりすぎた。十籠を奪い続けるのが、怖くなった。
 けれど十籠の力は、六淵がなにかせずとも徐々にその躯から削げていった。不浄からはすべて遠ざけられ、清らかであり続けなければならなかった十籠は、六淵の傍にいるだけで障りがあったのだ。
 十籠を知る前なら、むしろ好都合と哂えただろう。
 けれど、六淵は十籠がどんな子どもか知ってしまった。
 十籠、お前が現れなければ、俺は今でも綾識を恨み続けていられたろうに。
 自分を畜生以下に貶めようとする十籠を、他の綾識たちのように殺してやれたのに。
「……お前は最初から、このつもりだったのか。十籠よ。お前を信頼した、俺が愚かだったのか。抜けているように見えて、愛らしい振りをしておいて、その実、俺を従える日をずっと待っていたのか。――――その、好機を」
 所詮、綾識か。
 抑揚の抜けた声で、六淵は零した。昏い、声だと自分でも感じた。神と崇められても何も変われない、俺の本質は化物だ。十籠を衰弱させることしかできなった。
 十籠を、知ってはいけなかった。


           


14.01.10


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